阪下漣選手は、東洋大姫路の大注目選手です。
そんな彼の成功の裏には、幼少期から培われた
確かな基盤と努力がありました。
阪下君の強さのルーツを、
背景にあるエピソードと一緒に
深堀してみました!
是非最後までご覧下さいね。
阪下漣のwikiプロフィール

では阪下漣君のプロフィール
を見てみましょう!!
東洋大姫路の名前が
ここまで轟いているのは
間違いなく阪下漣君の影響ですよね!!

東洋大姫路は野球の強豪校ですが
ここ数年甲子園にも出られていない
ので、阪下君の活躍が楽しみです!!
では早速、阪下君のルーツを
探ってみましょう!!
阪下漣の小学校時代
阪下漣くんの在籍した小学校は
西宮市立浜脇小学校です。


小学2年生の頃から、
地元の「浜脇タイガース」で野球をスタート。
野球を始め、初めてついたポジションは
主に捕手や一塁手を務めており、
ピッチャー専門になったのは小学校5年生からだそうです。


小学5年生の途中で本格的に投手へ転向し
最初の先発登板が5年生の秋の大会で、
強豪・浜脇シャークスとの接戦ではエースを任され
惜しくも1-2で敗れるというエピソードがありました。
この試合は阪下くんが
と語るほど印象深く、
責任感と緊張感を強く覚えていたとのこと。



小5の頃の経験の悔しさをバネに
野球を続けてきたんですね!!
小学生の頃からピッチャーという
大役を任されることで感じた
プレッシャーや悔しさが、
「勝ちへのこだわり」
や負けず嫌いな性格に
繋がっているのでしょうね!
阪下漣の中学校時代
阪下漣君が通っていた中学校は
西宮市立浜脇中学校です。


阪下漣君は兵庫西宮ボーイズに所属し、
と球速は突出していませんでしたが、



「コントロールで苦しんだことがない」



中学時代で既にストライクを
必ず決められる投手
だったんですね!!
中学時代のチームではエースとして活躍し、
中一の頃のピッチングの様子が
youtubeにアップされています。
また、
ボーイズリーグの関西選抜に選ばれたことで、
のちに高校球界でライバルとなる
奥村頼人(横浜高校)と
中学時代にチームメートだった
こともエピソードとして語られます。


阪下漣君は中学生のころから
が信条で、
このように
中学時代から
全国レベルでの経験と安定した制球力を兼ね備えていたようです!
阪下漣の高校(東洋大姫路)時代
阪下漣君の出身高校は
兵庫県の強豪、東洋大姫路高校に2023年入学。
岡田龍生監督の下で野球を開始します。


阪下君は入学後すぐの
高校1年春からベンチ入りし、
同年夏の県大会で公式戦デビュー。
秋には主戦投手へと成り上がりました。



高校入学と共にベンチ入りも
凄いですが、秋には主戦投手とは…
高1で群を抜いてたんですね!
2年夏の予選や秋季大会でエースとして活躍し、
と好成績を残した事も
名を轟かせるきっかけとなっています。
高校野球では防御率0.34~0.87の選手が
上位に並ぶ中、1.27はカナリ高レベルの投手に
匹敵する数値だそうです!
そして2年秋の大会では
神宮大会で4強入りし80奪三振、
防御率0.83の実績を残しました。
3年生時のスペックは
を武器に、
大会屈指の精密制球を誇る右腕
として注目を集めました。
そして強さの秘訣は体格にもあり
阪下君は中学時代から高校入学時にかけて、
約20キロ増量しています。


具体的には、
高校入学時は体重が約70キロで、
入寮後は自ら毎晩約10合の白米を摂り
体重を増やす努力を重ね、
最高で約88キロまで増やしたそうです。



毎晩10合?!凄すぎませんか?!!
野球以外の努力がスサマジイ…
白米を増やして体重を増加させ、
投手としてのパワーアップを図った訳ですね!
2025年春のセンバツでは
右肘じん帯を損傷し、
夏の大会メンバーから外れていましたが
登板時だけでなく、ケガで離脱中は
と仲間から慕われるなど、
精神的支柱としても大きな影響を与えました。
精神面では己に勝つ事にも高い評価を
されており、明治神宮大会・横浜高校戦では、
など、厳しい場面でも
自らマウンドに立ち続ける
責任感の強さも際立っています!
阪下漣くんの最後の夏から
本当に目が離せませんね!!
まとめ
阪下漣君は東洋大姫路の投手陣を統率し、
試合の勝敗を左右する中心的役割を務め、
精神面でも技術面でもチームを引っ張る存在です。
伝統校の復活を象徴する絶対的エースとして
「試合を託したくなる存在感」と
チームや監督からの信頼を得ていました。
今後の阪下君の行く先が
とっても気になりますね!!
先ずは夏の甲子園で登板する姿を
楽しみにしています!!
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